no title

「母探し」の物語である『海辺のカフカ』の終盤において、主人公の少年「田村カフカ」(=「僕」) の分身「カラスと呼ばれる少年」は、"父殺し、母と姉との姦通"という三つの予言を成就してもなお「恐怖も怒りも不安感」から逃れられない田村カフカに、「ほんとうにタフになる」ということを語る。

「僕はどうすればいいんだろう?」……

「そうだな、君がやらなくちゃならないのは、たぶん君の中にある恐怖と怒りを乗り越えていくことだ」とカラスと呼ばれる少年は言う。「そこに明るい光を入れ、君の心の冷えた部分を溶かしていくことだ。それがほんとうにタフになるということなんだ。そうすることによってはじめて君は世界でいちばんタフな15歳の少年になれるんだ。……今からなら君はほんとうに自分を取り戻すことができる。……」

 その後、田村カフカは「森の中核」へと踏み入れ、自らの母であるかもしれない「佐伯」と再会し、彼女を「ゆる」す。すると、彼のなかで「凍っていた何かが音を立てる」。佐伯は彼に「もとの場所に戻って、そして生き続けなさい」と語る。

そもそも田村カフカという、一年遅れて中二病を発症した15歳の少年の「心」がヒエヒエなのは、4歳のとき母親によって捨てられたためだ。

「でも彼女は僕を捨てた。僕を間違った場所にひとりで残して消えてしまった。僕はそのことで深く傷ついたし、損なわれてしまった」

したがって、田村カフカの「いちばんタフな15歳の少年」になるための冒険は、母親探しと自らを捨てた母の赦しをもって終わる。

 ところで、作品の冒頭において、田村カフカは自らの冒険のなかで「形而上的で象徴的な砂嵐」をくぐりぬける必要があり、その砂嵐が「同時に……千の剃刀のようにするどく生身を切り裂く」だろうことが予告されている。しかし、俺にとって興味深いことに、田村カフカの冒険において前景化しているのは、そのような"傷つく"体験ではなく、むしろ主体的な「暴力」を行使すること、つまり傷つけることだ。田村カフカの物語と対を成す「ナカタさん」の物語は、惨たらしい猫殺しを語るなかで代理として田村カフカの父を殺し、かたや田村カフカ本人は夢のなかで「さくらさん」を「レイプ」する。実際のところ、田村カフカは物語開始前に「同級生とのあいだに暴力的な事件を起こしている」。終盤、森のなかで田村カフカが出会う旧陸軍の兵隊は「暴力的な意志に含まれることに耐えられなかった」と釈明し、またカラスと呼ばれる少年も「戦いを終わらせるための戦いというようなものはどこにもない」と語る。田村カフカの冒険においては、暴力は他者に対するものとして意識され、田村カフカはそのような暴力から遠ざかっていく。ついでにいえば、田村カフカの同伴者である「大島」は血友病を患っており、「なるべく怪我をしないように気をつけなくちゃいけない」が、傷つける可能性を排除しているのはこの人物くらいだ。

 他方で、「千の剃刀のよう」に彼を傷つける暴力はほとんど見当たらない。田村カフカは母に遺棄されたことですでに「損なわれて」いるのだが、冒険を通じて予言されていたように何か新しい傷を得たようには見えない。田村カフカの冒険は、傷つける/傷つけられることではなく、傷つける/傷つけないという対立軸で回っているわけだ。

 森を脱出する田村カフカに、彼を見送る兵隊は以下のような言葉を投げかける。

「銃剣のことは忘れないようにね」と背の高い兵隊が言う。「相手を刺したら、それをぎゅっと横にねじるんだ。そしてはらわたを裂く。そうしないと、君が同じことをやられる。それが外の世界だ」

「でもそれだけでもない」とがっしりしたほうが言う。

「もちろん」、背の高い兵隊が言う。……「僕は暗い側面を語っているだけだ」

兵隊が語る「外の世界」の「暗い側面」とは、「相手を刺す」必要があること、そうしなければ自分が「同じことをやられる」ことをいう。外の世界の暗さは、砂嵐によって傷つくことではなく、銃剣によって他者を傷つけることにある。そして、いうまでもなく、そのような「暗さ」に「心の冷えた部分」を溶かすとされる「明るい光」が対置されうるのだろうし、それこそが「ほんとうにタフになる」ということの意味なのだと、俺たちは教えられる。

 

本当にそうなのか?

ここでやはり俺は、もうひとりの「タフ」な男「タイ・カリーソ」を思い出す。

 

『Gears of War2』において、主人公マーカスは戦友タイ・カリーソを「ブルマックのようにタフ (Tai's as tough as a Brumak)」な男だと形容する。しかしながら、よく知られているように、ローカストによる拷問によってタイは廃人と化してしまい、マーカスに救出された直後、彼は自ら命を絶つ。

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高所からテキトーに『Gears of War2』を語れば、この作品はガチムチ肉団子が鉄砲で殺し合いをするような、いかにも米国的なマッチョイズムそのもののように見える。しかし、実際のところ『GoW』シリーズが俺たちに提示しているのは、鍛え上げられた肉体が拷問によって徹底的に破壊されてしまうこと、妻子を失った兵士 (ドム) が特攻に希望を見ること、敵とすれ違う刹那にナッシャーショットガンによって「タフ」な男たちがミンチにされることであり、要するに、可傷性だ (その意味で『ハート・ロッカー』において海兵隊員が『GoW1』をプレイしているのは示唆的だといえる。監督のビグロー的には兵士の精神を破壊する"暴力的なゲーム"として引用したつもりだろうが)。

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あるいは、『GoW3』における処刑モーションを見てもいい。もはやそこにあるのは暴力への志向というより、度を過ぎた暴力が示す可傷性、シンプルな破壊可能性ではないのか。常識的なプレイヤーからすれば、数々の処刑モーションから得るカタルシスはほとんどない。無意味に暴力的なわけだ。もちろん、無意味な暴力というのはそれはそれで面白い。

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いずれにせよ、タイがそうであったように、「ブルマックのようにタフ」だったとしても、破壊は避けようがない。どうやっても俺たちはどこかで、いつか、何かによって破壊される。あるいは、タフだからこそ可傷性が浮き彫りになる。タフであるにもかかわらず、という形で。破壊可能性はつねに内在的だ。タフであることは、自らの破壊可能性を露出させることに関わっている。

 だから、"タフであること"について語るとき、俺たちが本当に目を向けなければならないのは他者を傷つける暗い可能性と、その暗さを「明るい光」で温めることではない。むしろ、自らが他なる暴力の客体である可能性こそを考えるべきだと俺は思う。田村カフカの"タフさ"には、どこまでも自らを律し、他者を傷つけないと誓う"主体"の傲慢さが見える  (ついでにいえば、田村カフカは15歳のくせにジム通いで、森のなかでさえ「身体機能を維持するためにつくられたワークアウト・メニュー」を律儀にこなす)。((さらにいえば、終盤、夢のなかで強姦したさくらさんに電話をかけ「僕もさくらさんの夢を見たよ」といい、「すごくエッチな夢じゃないの?」という問いに「かもしれない」と答える厚かましさだ。こいつはもうどうしようもない。忌憚のない意見ってやつっス))

 そうじゃなくて、俺たちは暴力を行使する存在である前に、まず暴力が到来する存在であることについて考えなくてはいけないのではないか。

 

そういうわけで、第22セリーにおいて、二つの死の区別がなされていることを思い出しておく。ひとつは「決して現前せず、過去と未来に分割され、過去と未来から切り離せない出来事としての」、つまり「非人称的」な死であり、もうひとつは、「最も辛い現在に到来して実現される人称的な死」だ。そのうえで、次のような疑問が提出される。

非物体的な裂け目を実現させず、また、身体の深層で受肉させないように用心しながら、その存立を維持するなどということが可能だろうか。

しかし「これら一連の問いすべてが、然り常に二つの相・二つの過程は本性を異にする、と思考する者すべての滑稽さを告発している」(らしい)。重要なのは次だ。

そうではあるが、ブスケが傷の永遠真理について話すとき、自分の身体が抱える忌まわしい個人的な傷の名において話しているのである。

俺たちは、滑稽さを告発されようとも、裂け目=破壊を意志しつつ、しかし同時にその破壊を完全に到来させはしないということをやるしかない。そしてそれは、「われわれに到来することに値する者になること」というモラルに貫かれている (たぶん)。

 正直よくわからないが、このモラルは「役者」という形象において理解される。

役者は出来事を実現するのだが、出来事が事物の深層で実現されるのとはまったく別の方式によってである。……役者の実現は、宇宙的で物理的な実現に境界を定めて、そこから抽象的な線を引き出し、出来事の輪郭と光輝だけを保存する。自己自身の出来事のコメディアンになること、反-実現。

二つの死、裂け目、破壊、崩壊がある。決して現前しない非人称的な出来事としてのそれと、到来し実現するそれだ。どちらも避ける、というわけにはいかない。そのような(田村カフカのような?)健康には意味がない。「われわれが勧誘されるのは、健康よりは死であるからである」。

 しかしどちらも取るというわけにもいかない。それはタイのように自分のドタマを吹き飛ばすことであり、ナッシャーでミンチになることだ。破壊可能性を認めないわけにはいかないが、同時に、露出された破壊可能性をそのまま受け入れるわけにもいかない。

出来事が肉体に記されるのでなければ、出来事の永遠真理を捉えることはできないが、その都度、われわれは、この苦しい実現を、それを制限し演じ変貌させる反-実現で裏打ちすべきである。自分で伴奏しなければならない。

ここで俺たちはマーカスの至言を思い出す必要がある。

戦場での鉄則は『カバー命』だ

Golden Rule of the Gears is:Take cover or die.

逃げるのではなく、カバーポジションを取ること。出来事から逃れるのではなく、出来事にカバーポジション=裏を取ること。それは、暗さの代わりに明るさを選ぶような、オルタナティブを選択することとはまったく違う。

「わかった じゃあプランBで行こう...プランBは何だ?」

「あ?ねぇよそんなもん 」

"Fine. We’ll go to plan B… you got a plan B?"

"What? Hell no!

ドムが認めるように、オルタナティブ=プランBは存在しない。

その代わり、俺たちは、到来するはずの、あるいは到来するはずだった出来事としてのプランAを自ら裏打ちしなければならない。

俺たちはデルタ小隊にならなければならない。

「それがほんとうにタフになるということ」、つまり「ブルマックのようにタフ」になるということだからだ。

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『ちぐはぐな身体』において、川久保玲三宅一生の服による性的同一性の「ずらし」に触れながら、鷲田清一は、脱線として、いわゆる「変態」がなぜ男性にばかり見受けられるのかと問い、以下のような仮説を提示している。

……ぼくらの身体はその可視性の点でいうととても情報の乏しいものであり、したがって想像的なものに媒介されて、つまり<像>として、はじめて経験できる (略)。(ところで) このような<像>としての身体は、男性と女性とで所有のしかたがどうも異なるらしい。女性の場合、いったん獲得された<像>はくりかえし触知される身体現象と照らし合わせることを強いられる [第二次性徴における身体の形状の変化、月経とその周期、妊娠と出産、更年期障害と閉経] 。女性はこのように、じぶんの身体の深いところでまるで潮の満ち引きのようにうねりつつ起きる状態の変化を、あるいは身体の内部からじぶんを襲ってくる得体の知れないさまざまの出来事を、たえず受け容れ、なだめすかしつつ、みずからの身体イメージのうちに組み込んでいかねばならない。

 これに比べると、男性の身体はなんとも抽象的である。たしかに思春期とよばれる時期に、髭や体毛が生えてきたり、声が変わったり、ペニスが大きくなったりはするけれど、全体としての身体の形状はそれほど劇的に変わるわけではない。だから、一度獲得された身体イメージは固着し、融通性を欠いた観念的なものとなる。だから、じぶんのなれ親しんだ身体イメージを傷つけるもの、その変更を強いてくるものに直面したとき、まるでじぶんの存在そのものが侵され、揺さぶられているかのように感じて、はげしいショックを受ける。

というわけで、男性身体は女性身体に比べ変化の許容度が低く、限定されているということになる。しかし俺がいまここでしたい話は、変態のことではない。

 男性身体をめぐる鷲田の記述は、それじたいが「抽象的」だという気がする (「思春期とよばれる時期」という迂遠な表現、二度繰り返される「だから」)。ついでにいえば、質料的次元との格闘を女性身体の<像>に割り当て、男性身体の<像>を質料性を欠如した「観念的」なものだとするのは、驚くほど素朴に男性的なプラトニズムにも思える。「身体」なるものが自己に関する断片的な情報を寄せ集めた想像的な構築物だという鷲田の中心テーゼを踏まえるなら、あえて強引にいってしまえば、男性身体には女性身体に比べて、さして取り上げるほどの「断片」がないわけだ。

 とはいえ、やはり俺は男性身体がいかに木偶の坊かという話がしたいわけではない。 

 いまのところ俺にとって重要なのは、上記のテーゼがそもそも問題にしていない可能性、要するに、断片的な身体が全体的な<像>なしに成立する、あるいは、断片が断片のままであり続ける可能性だ。

 ここで、俺はカミングスのもっとも有名な恋愛詩"somewhere i have never travelled, gladly beyond"を思い出す。

somewhere i have never travelled, gladly beyond
any experience, your eyes have their silence:
in your most frail gesture are things which enclose me,
or which i cannot touch because they are too near

 

your slightest look easily will unclose me
though i have closed myself as fingers,
you open always petal by petal myself as Spring opens
(touching skillfully, mysteriously) her first rose

 

or if your wish be to close me, i and
my life will shut very beautifully, suddenly,
as when the heart of this flower imagines
the snow carefully everywhere descending;

 

nothing which we are to perceive in this world equals
the power of your intense fragility: whose texture
compels me with the colour of its countries,
rendering death and forever with each breathing

 

(i do not know what it is about you that closes
and opens; only something in me understands
the voice of your eyes is deeper than all roses)
nobody, not even the rain, has such small hands

開くことと閉じることについて書かれた美しい書き物だと思うが、それと同時に、身体の抱える各断片性を取り出し、全体性に回収することなく相互に連絡させることで、俺らの「身体」が一体いかなるものなのかを明らかにもしているような気がする。

 視線は沈黙の声 (your eyes have their silence) と、あるいは触覚 (your slightest look easily will unclose me) と結びつき、 つねに小文字のiで表示される語り手の身体もまた、複数の指へと断片化する (though i have closed myself as fingers)。身体とその部分は、全体的な<像>へと悪魔合体させられるのではなく、まさに一片の花びらのように (petal by petal) 、自らの断片性において開示されていく。そして、語り手とその相手の身体のすべてが明るみに出ることは決してない (i do not know what it is about you . . . )。あえていえば、永遠に「秘密」であり続ける (deeper than all roses)。

[一見"understands"の目的語は"the voice of your eyes"のようにみえるが、" . . . is deeper than"とthat節が続くことで、ここで理解されているものが"the voice of your eyes"ではなく、むしろその理解不可能性 ( [that] the voice . . . is deeper than all roses) だということが示されている"]

 

 身体を断片から構築される想像的な記号だとする鷲田の理解は、もちろん「構造」への目くばせがあるわけで、発想としては、ある意味で「時代」に印づけられているのは間違いない。むしろ、そのような記号論的枠組みを抱えつつも、身体のマテリアリティを真面目に考えようとしている点で、やはり学ぶところは多い。

 それでも俺が気になったのは、前述のとおり、断片が断片のままでありうるのではないか、そして、断片には全体性に至ることなく相互に連絡し、「身体」を明らかにする力があるのではないか、ということだった。とりあえず、カミングスの詩はそういう話をしているのだと俺は思っている。

 結局のところ、身体は全体的でなくてもいいんじゃないのかという話だ。

 身体そのものをためらいがちに語り、部分的にであれ、開示するような断片があるんじゃないのか。

 なにしろ雨粒よりも小さい手があるわけで (nobody, not even the rain, has such small hands)。

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Tシャツを探している。

夏でも長袖のシャツを着る (腕が細いため)。その下に着るちょうどいいTシャツがほしい。

 

いまのところTシャツというのはもっとも俺の乗り気ではない衣類のひとつであり、そもそもお金をかけたくない。にもかかわらず、ここ2~3年、俺が服を"真面目"に探すようになったきっかけは「smoothday」のディオラマカットソーだった。

 

ちょうどsmoothdayが廃業?する直前で、Twitterでなんかめちゃくちゃ好評だったため本当になんとなくで購入した。1割引きで6500円くらいだった気がする。当時の俺からすると (いまでもだが)、Tシャツ一枚の値段としては破格である。

夏の定番はこの一択 肌が喜ぶ smoothday の無地Tシャツ – R for D

 

実際、着てみると、生地の滑らかさやらゆったりしつつもすっきりしたシルエットやらで「なんかすげーもんを買ったぞ……」という感じがして、素朴に感動した。毎年、夏が来るたびに驚いている。

それなりにお金を出すとそれなりのものが手に入る、という当たり前のことを学んだわけだった。

 

ところがsmoothdayというブランド?はもう終了してしまったらしいので困っている。

なんとなくサンスペルが代替品としての候補だが実物を見る機会がないので躊躇。グランフロントにあった店舗もいつの間にか消滅している。そもそもsmoothdayより高い。

 

で、なんか調べるとエストネーションとかいう服屋がsmoothdayの母体だった生地屋?小野メリヤスのディオラマを使ったTシャツを作っているらしい。税込9,900円。

 

たけえ………………Tシャツぞ………?

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一昨年の夏だったか、素足にビルケンチューリッヒでグランフロントを歩いていたら女子大生っぽい人にすれ違いざまに「ビルケン素足で履いてる人はじめてみたw」と辻斬りされて俺はめちゃめちゃ動揺してそのまま6階の紀伊國屋まであがって講談社学術文庫が並んでいる売り場で精神統一しなけばならなかったことがある。

 

それはともかく、このチューリッヒ、黒色に染めることにした。

最近、サンダルって基本的にカジュアルなわけだし初心者的には足元は暗い色のほうがいいような気がしていた。

買って、しかもそこそこ履いてからから思い至る。そういうことを繰り返して生きてきた。

TAUPEとかいうわけわかんねえ色。

マスキングテープを貼りまくった。剥がす段階になって思ったより粘着力があったためフットベッドがややダメージを受けてしまい反省した。

 

 

染めQ70mlが二本で十分だった。

思ったよりムラがない。前回のヤシャブシ鉄媒染よりだいぶマシ。

オリジナルのブラックに比べるともちろん質感は劣る。特にスエードのしなやかさは死んだ。

なおオリジナルは金具の色がシルバーなので、そのあたりが目立った違いになる (ソールの色も違うかも)。

それなりに満足している。

 

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ジョン・ロックは『人間悟性論』のなかで次のような例を持ち出しており、俺は勝手に感動して、よくわからない文章を書いている。

Simple ideas wouldn’t be convicted of falsity if through the different structure of our sense-organs it happened that one object produced in different men’s minds different ideas at the same time—for example, if the idea that a violet produced in one man’s mind by his eyes were what a marigold produced in another man’s, and vice versa. This could never be known, because one man’s mind couldn’t pass into another man’s body to perceive what appearances were produced by his organs; so neither the ideas nor the names would be at all confounded, and there would be no falsehood in either. . . . I am nevertheless inclined to think that the sensible ideas produced by any object in different men’s minds are usually pretty exactly alike . . . 

「もしある人物の精神のなかにその人の目を通じてスミレの生み出す観念が、別な人物の精神のなかにマリーゴールドの生み出す観念と同一であったり、はたまたその逆であったりしたら」……

たとえそうだとしてもそのような観念は「偽」ではない、というのがロックの主張なんだろう (たぶん)。そもそも彼がいうように他人のドタマのなかをのぞき込んでそこにあるのがどんな観念なのかは確認したりできない。

 

ここでロックが論じているのは"Simple ideas are merely perceptions that God has fitted us to receive, and has enabled external objects to produce in us"と定義されるような「単純な観念 (simple ideas)」であるため、別にそんなに深い意味があるような例ではない。

問題となっているのは「ある同じときに、同じ対象が二人の人物に異なる観念を与える場合」、つまり「目の前に咲くスミレがマリーゴールドがあなたに与えるのと同じ観念をわたしに与える場合」だ (わたしにはスミレがマリーゴールドにみえる)。

 

非現実仮想"the idea . . . were"で書かれているのでさすがにロックも「こんなことはありえねえだろうが……」と思っているのだが、結局"this could be never known"というように、実際のところありうるかもしれない。

あるいは、ふつうにいえば、ここで起きている現象はただの「思い違い」にすぎず、特別な意味を見出すようなものでもない。

 

しかし、なんとなくだが、そんなことの起きる世界は美しいのではないか。

確かに「いま目の前で咲いている花」に関する観念について二人のあいだでは一致を見ない。しかしそれは、「いまここ」の時間的空間的制約を超えて、二人が同じことを考えていた/いる/だろうかもしれないことを含意している。

少なくとも二人は「マリーゴールドの観念」においては一致しているからだ。

 

わたしがスミレをみて抱いたマリーゴールドの観念は、あなたがいつかマリーゴールドをみて抱いた/抱くだろうマリーゴールドの観念と同一である。

 

ロックがいうようにお互いがその事実を知ることはない。

同じとき、同じ場所で、ある花をみながら、わたしはあなたがあの日あの時みた、あるいは、いつかみるのと同じ、しかし別な花を思い浮かべる。

人知れず、密やかに、自分自身ですら気づかずに。

 

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いつの間にやら今年も俺の誕生日が近い。

(筆者註: 俺は1994年6月3日生まれです)

 

とはいえ俺の誕生日はじつのところどうでもいいので、時計の針を89年と352日戻す。

1904年6日16日といえば「ブルームの日」であって要するに『ユリシーズ』の日だが、その第1挿話のなかでスティーヴンは次のようなことをいう。

History, Stephen said, is a nightmare from which I am trying to awake.

 

次に112年ほど進んで、2016年、俺は三条京阪にいて「在日特権を許さない会」が交差点で何やら怒鳴り散らしているのを眺めている。

そのとき俺は帰化したばかりの新米日本人だったが、その場にいる多くの人たちが「在特会」に見向きせず素通りしているのを見て妙な感覚を覚えていた。

在特会ではなく在特会に気を停めない周囲の「日本人」とのあいだに断絶があった。

 

それから多少の月日が過ぎ、2023年、「政治的なことは個人的なことである」という逆転したテーゼのもとでものを考えるようになったころ、俺は清渓川に向かってかつて「京城」と呼ばれた街を北上しつつ、けたたましい尹錫悦退陣デモを遠巻きに眺めている。

遠巻きに、というのは、とりあえず、日本のパスポートを持つ俺が彼らの目に好意的に映るわけがないからだ。

しかしそうはいっても……と俺は思わざるを得ない。

俺を普通の「チョッパリ」ないし「イルボン」と同じにしてもらっては困る……というような感情がある。

俺にも事情がある。

物事には歴史がある。

結局のところ、悪夢かどうかはさておき、「歴史」という夢から覚めることはない。

 

 

と思ってこの記事を書いてたら寝室のLGのTVがいきなり壊れた。

DCアダプターから煙が出てきた。

やばない?

やっぱ日本製にせなあかんね! (かつて友人の守口製ノートPCが爆発した事実に目を背けながら)

 

 

 

no title

BBC製作のシットコムThe Office』のシーズン1最終話で、製紙会社ウェーナム・ホッグのスラウ支社長デイヴィッド・ブレントは、かねてから人員削減を迫られていたので、フォークリフト乗りのアレックスのクビを切ることにする。

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上のクリップでアレックスは、彼が"midget"つまり身障者だと考えるアントンではなくて自分を解雇するのは逆差別ではないかとブレントに迫るが、この"midget"という言葉をめぐって事態は紛糾する。

Brent: Look, whether or not Anton is indeed a midget or a dwarf...

Alex : No, he's a midget.

Brent: What's the difference?

Alex: Well....a dwarf has disproportionately short arms and legs.

Brent: Oh, I know the ones.

Alex: It's caused by a hormone deficiency.

Brent: Yeah. Bloody hormones.

Alex: A midget is still a dwarf, but their arms and legs are in proportion.

まったく本質的ではない問答は、なぜかその場に居合わせるギャレスの次の問いかけでさらに混迷に陥ってしまう。

Gareth: So, what's an elf?

Brent: Do you want to answer that?

Alex: ......An elf is a supernatural being. Sometimes they're invisible, like fairies.

Brent: They don't actually exist, do they? In real life?

 . . . 

Gareth: So is a pixie the same as an elf?

Brent:  Hold on, Gareth.

Gareth: I just want to know how he knows so much about midgets.

Alex: .......It's called an education.

The Engineneer: So what's a goblin?

無意味な質問を重ね、要領を得ないやりとりを続けるブレントとギャレスに呆れ果てたアレックスはその場をあとにするが、その直後、やはりなぜかその場に居続ける禿げ頭の謎の修理工が"So What's a goblin?"と問い、オチがつく。

 

このクビを言い渡すシーンが、第1話冒頭の面接のシーンと対になっているのは明らかだ。

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この魅力あふれる1分25秒のシーンのなかで、俺はブレントの次のセリフが特に好きだ。

Brent: The point is you talk the talk, but do not walk the walk, vis-a-vis, you've not yet passed your forklift driver's test.

The man who gives the jobs in the warehouse is a personal friend of mine. All right?

空気読み人知らずであるため、ブレントのジョークは何をいっても外し続けるが、ここでは彼の意図を超えて、二つのレベルでこの作品の本質的問題が提示されている。

「言葉が現実を迂回する」という問題だ。

第一に、"talk the talk but not walk the walk" = 「口先だけで行動が伴わない」という言い回しは、作品を通じて描かれる、社内の現実とまったく乖離したブレントの自己満足的な物言いを準備している。

第二に、"the point is . . . "とブレントは切り出したものの、実際のところ彼の話の「要点 = the point」は面接者がフォークリフトの免許を持たないことではない。要点は、倉庫を管理する役職者とブレント自身が個人的な友人であり、融通が利くことだ。その意味ではフォークリフトの免許があろうがなかろうが本質的な問題ではない。

(ついでにいえばvis-a-visの使い方もおかしい)

 

アレックスのシーンでもおおむね同じようなことが起きている。

アレックスは、アントンが"midget"であるがゆえに障害者雇用枠で会社に残り、代わりに自分が解雇されるのだと示唆している。もちろん事の本質はアレックスの抱える差別意識そのものだが、ブレントとのやり取りで問題にされるのはなぜか"dwarf"と"miget"の違いであり、"elf"と"pixie"の違いであり、それらと"goblin"との違いだ。このようにただひたすらに些末な差異が問題化されるために、実際にアントンが身障者であるかどうかという問いじたいが相対化され、その本質的な無意味さが明らかにされる。アントンが持ち出した健常者と身障者という分節化にあえて乗り、言葉による分節化を過激化させることで、ブレントとギャレスはアレックスの主張を無力化する。

要するに、言葉は、現実を迂回し事の本質を外し続けることで事態を紛糾させるわけだ。

その意味で、俺はアレックスが去り際に吐き捨てる"It's called an education..."というセリフが味わい深いと勝手に思っている。一見どうでもよい差異に関わる知識が「教育」だというからだ。つまりそれは、言葉によって事態を紛糾させること、事の本質の一歩手前で迂回し続けることが「教育」だというのと同じではないか? だからこそ、オチの"So what's a goblin?"がものの見事に話の要点を外す様には深遠なものさえ感じられる。

 

ここで俺は、なぜかデイヴィッド・フォスター・ウォレスのあのスピーチを思い出す。

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これはとある大学での卒業記念スピーチで、"This is Water"というタイトルで本になったり邦訳されたりしているが、次のようにはじまる。

“Greetings parents and congratulations to Kenyon’s graduating class of 2005. There are these two young fish swimming along and they happen to meet an older fish swimming the other way, who nods at them and says “Morning, boys. How’s the water?” And the two young fish swim on for a bit, and then eventually one of them looks over at the other and goes “What the hell is water?"

This is a standard requirement of US commencement speeches, the deployment of didactic little parable-ish stories. The story thing turns out to be one of the better, less bullshitty conventions of the genre, but if you’re worried that I plan to present myself here as the wise, older fish explaining what water is to you younger fish, please don’t be. I am not the wise old fish. The point of the fish story is merely that the most obvious, important realities are often the ones that are hardest to see and talk about. Stated as an English sentence, of course, this is just a banal platitude, but the fact is that in the day to day trenches of adult existence, banal platitudes can have a life or death importance, or so I wish to suggest to you on this dry and lovely morning.

俺には"What the hell is water?"と"So What's a goblin?"は同じことを問うているように思える。

俺たちの生活において、言葉は「現実」を紛糾させる。単に生きるだけなら必要のないような区別を生み、生活の流れを止めてしまう。しかし大切なのは、まさにそのように言葉によって事態を紛糾させること、"miget"と"goblin"の違いにこだわることであり、「てか水ってなに?」とあえて問うことなわけだ。それは、いままさに目の前にある事の本質をあえて外すことだ。

ウォレスによれば、いわゆるリベラルアーツ教育の意義とは、俺たちの日々の生活のなかでデフォルト設定になってしまった認識から抜け出すことにある。

ある意味で、当たり前のことだ。ウォレスが言うようにこんなことは「陳腐な決まり文句(banal platitude)」にすぎない。

だが、当たり前なことは確認し続ける価値がある。

 

実際、デイヴィッド・ブレントも第4話で次のような金言を吐いている。

A good idea is a good idea...forever.