no title

『ちぐはぐな身体』において、川久保玲三宅一生の服による性的同一性の「ずらし」に触れながら、鷲田清一は、脱線として、いわゆる「変態」がなぜ男性にばかり見受けられるのかと問い、以下のような仮説を提示している。

……ぼくらの身体はその可視性の点でいうととても情報の乏しいものであり、したがって想像的なものに媒介されて、つまり<像>として、はじめて経験できる (略)。(ところで) このような<像>としての身体は、男性と女性とで所有のしかたがどうも異なるらしい。女性の場合、いったん獲得された<像>はくりかえし触知される身体現象と照らし合わせることを強いられる [第二次性徴における身体の形状の変化、月経とその周期、妊娠と出産、更年期障害と閉経] 。女性はこのように、じぶんの身体の深いところでまるで潮の満ち引きのようにうねりつつ起きる状態の変化を、あるいは身体の内部からじぶんを襲ってくる得体の知れないさまざまの出来事を、たえず受け容れ、なだめすかしつつ、みずからの身体イメージのうちに組み込んでいかねばならない。

 これに比べると、男性の身体はなんとも抽象的である。たしかに思春期とよばれる時期に、髭や体毛が生えてきたり、声が変わったり、ペニスが大きくなったりはするけれど、全体としての身体の形状はそれほど劇的に変わるわけではない。だから、一度獲得された身体イメージは固着し、融通性を欠いた観念的なものとなる。だから、じぶんのなれ親しんだ身体イメージを傷つけるもの、その変更を強いてくるものに直面したとき、まるでじぶんの存在そのものが侵され、揺さぶられているかのように感じて、はげしいショックを受ける。

というわけで、男性身体は女性身体に比べ変化の許容度が低く、限定されているということになる。しかし俺がいまここでしたい話は、変態のことではない。

 男性身体をめぐる鷲田の記述は、それじたいが「抽象的」だという気がする (「思春期とよばれる時期」という迂遠な表現、二度繰り返される「だから」)。ついでにいえば、質料的次元との格闘を女性身体の<像>に割り当て、男性身体の<像>を質料性を欠如した「観念的」なものだとするのは、驚くほど素朴に男性的なプラトニズムにも思える。「身体」なるものが自己に関する断片的な情報を寄せ集めた想像的な構築物だという鷲田の中心テーゼを踏まえるなら、あえて強引にいってしまえば、男性身体には女性身体に比べて、さして取り上げるほどの「断片」がないわけだ。

 とはいえ、やはり俺は男性身体がいかに木偶の坊かという話がしたいわけではない。 

 いまのところ俺にとって重要なのは、上記のテーゼがそもそも問題にしていない可能性、要するに、断片的な身体が全体的な<像>なしに成立する、あるいは、断片が断片のままであり続ける可能性だ。

 ここで、俺はカミングスのもっとも有名な恋愛詩"somewhere i have never travelled, gladly beyond"を思い出す。

somewhere i have never travelled, gladly beyond
any experience, your eyes have their silence:
in your most frail gesture are things which enclose me,
or which i cannot touch because they are too near

 

your slightest look easily will unclose me
though i have closed myself as fingers,
you open always petal by petal myself as Spring opens
(touching skillfully, mysteriously) her first rose

 

or if your wish be to close me, i and
my life will shut very beautifully, suddenly,
as when the heart of this flower imagines
the snow carefully everywhere descending;

 

nothing which we are to perceive in this world equals
the power of your intense fragility: whose texture
compels me with the colour of its countries,
rendering death and forever with each breathing

 

(i do not know what it is about you that closes
and opens; only something in me understands
the voice of your eyes is deeper than all roses)
nobody, not even the rain, has such small hands

開くことと閉じることについて書かれた美しい書き物だと思うが、それと同時に、身体の抱える各断片性を取り出し、全体性に回収することなく相互に連絡させることで、俺らの「身体」が一体いかなるものなのかを明らかにもしているような気がする。

 視線は沈黙の声 (your eyes have their silence) と、あるいは触覚 (your slightest look easily will unclose me) と結びつき、 つねに小文字のiで表示される語り手の身体もまた、複数の指へと断片化する (though i have closed myself as fingers)。身体とその部分は、全体的な<像>へと悪魔合体させられるのではなく、まさに一片の花びらのように (petal by petal) 、自らの断片性において開示されていく。そして、語り手とその相手の身体のすべてが明るみに出ることは決してない (i do not know what it is about you . . . )。あえていえば、永遠に「秘密」であり続ける (deeper than all roses)。

[一見"understands"の目的語は"the voice of your eyes"のようにみえるが、" . . . is deeper than"とthat節が続くことで、ここで理解されているものが"the voice of your eyes"ではなく、むしろその理解不可能性 ( [that] the voice . . . is deeper than all roses) だということが示されている"]

 

 身体を断片から構築される想像的な記号だとする鷲田の理解は、もちろん「構造」への目くばせがあるわけで、発想としては、ある意味で「時代」に印づけられているのは間違いない。むしろ、そのような記号論的枠組みを抱えつつも、身体のマテリアリティを真面目に考えようとしている点で、やはり学ぶところは多い。

 それでも俺が気になったのは、前述のとおり、断片が断片のままでありうるのではないか、そして、断片には全体性に至ることなく相互に連絡し、「身体」を明らかにする力があるのではないか、ということだった。とりあえず、カミングスの詩はそういう話をしているのだと俺は思っている。

 結局のところ、身体は全体的でなくてもいいんじゃないのかという話だ。

 身体そのものをためらいがちに語り、部分的にであれ、開示するような断片があるんじゃないのか。

 なにしろ雨粒よりも小さい手があるわけで (nobody, not even the rain, has such small hands)。