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「母探し」の物語である『海辺のカフカ』の終盤において、主人公の少年「田村カフカ」(=「僕」) の分身「カラスと呼ばれる少年」は、"父殺し、母と姉との姦通"という三つの予言を成就してもなお「恐怖も怒りも不安感」から逃れられない田村カフカに、「ほんとうにタフになる」ということを語る。

「僕はどうすればいいんだろう?」……

「そうだな、君がやらなくちゃならないのは、たぶん君の中にある恐怖と怒りを乗り越えていくことだ」とカラスと呼ばれる少年は言う。「そこに明るい光を入れ、君の心の冷えた部分を溶かしていくことだ。それがほんとうにタフになるということなんだ。そうすることによってはじめて君は世界でいちばんタフな15歳の少年になれるんだ。……今からなら君はほんとうに自分を取り戻すことができる。……」

 その後、田村カフカは「森の中核」へと踏み入れ、自らの母であるかもしれない「佐伯」と再会し、彼女を「ゆる」す。すると、彼のなかで「凍っていた何かが音を立てる」。佐伯は彼に「もとの場所に戻って、そして生き続けなさい」と語る。

そもそも田村カフカという、一年遅れて中二病を発症した15歳の少年の「心」がヒエヒエなのは、4歳のとき母親によって捨てられたためだ。

「でも彼女は僕を捨てた。僕を間違った場所にひとりで残して消えてしまった。僕はそのことで深く傷ついたし、損なわれてしまった」

したがって、田村カフカの「いちばんタフな15歳の少年」になるための冒険は、母親探しと自らを捨てた母の赦しをもって終わる。

 ところで、作品の冒頭において、田村カフカは自らの冒険のなかで「形而上的で象徴的な砂嵐」をくぐりぬける必要があり、その砂嵐が「同時に……千の剃刀のようにするどく生身を切り裂く」だろうことが予告されている。しかし、俺にとって興味深いことに、田村カフカの冒険において前景化しているのは、そのような"傷つく"体験ではなく、むしろ主体的な「暴力」を行使すること、つまり傷つけることだ。田村カフカの物語と対を成す「ナカタさん」の物語は、惨たらしい猫殺しを語るなかで代理として田村カフカの父を殺し、かたや田村カフカ本人は夢のなかで「さくらさん」を「レイプ」する。実際のところ、田村カフカは物語開始前に「同級生とのあいだに暴力的な事件を起こしている」。終盤、森のなかで田村カフカが出会う旧陸軍の兵隊は「暴力的な意志に含まれることに耐えられなかった」と釈明し、またカラスと呼ばれる少年も「戦いを終わらせるための戦いというようなものはどこにもない」と語る。田村カフカの冒険においては、暴力は他者に対するものとして意識され、田村カフカはそのような暴力から遠ざかっていく。ついでにいえば、田村カフカの同伴者である「大島」は血友病を患っており、「なるべく怪我をしないように気をつけなくちゃいけない」が、傷つける可能性を排除しているのはこの人物くらいだ。

 他方で、「千の剃刀のよう」に彼を傷つける暴力はほとんど見当たらない。田村カフカは母に遺棄されたことですでに「損なわれて」いるのだが、冒険を通じて予言されていたように何か新しい傷を得たようには見えない。田村カフカの冒険は、傷つける/傷つけられることではなく、傷つける/傷つけないという対立軸で回っているわけだ。

 森を脱出する田村カフカに、彼を見送る兵隊は以下のような言葉を投げかける。

「銃剣のことは忘れないようにね」と背の高い兵隊が言う。「相手を刺したら、それをぎゅっと横にねじるんだ。そしてはらわたを裂く。そうしないと、君が同じことをやられる。それが外の世界だ」

「でもそれだけでもない」とがっしりしたほうが言う。

「もちろん」、背の高い兵隊が言う。……「僕は暗い側面を語っているだけだ」

兵隊が語る「外の世界」の「暗い側面」とは、「相手を刺す」必要があること、そうしなければ自分が「同じことをやられる」ことをいう。外の世界の暗さは、砂嵐によって傷つくことではなく、銃剣によって他者を傷つけることにある。そして、いうまでもなく、そのような「暗さ」に「心の冷えた部分」を溶かすとされる「明るい光」が対置されうるのだろうし、それこそが「ほんとうにタフになる」ということの意味なのだと、俺たちは教えられる。

 

本当にそうなのか?

ここでやはり俺は、もうひとりの「タフ」な男「タイ・カリーソ」を思い出す。

 

『Gears of War2』において、主人公マーカスは戦友タイ・カリーソを「ブルマックのようにタフ (Tai's as tough as a Brumak)」な男だと形容する。しかしながら、よく知られているように、ローカストによる拷問によってタイは廃人と化してしまい、マーカスに救出された直後、彼は自ら命を絶つ。

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高所からテキトーに『Gears of War2』を語れば、この作品はガチムチ肉団子が鉄砲で殺し合いをするような、いかにも米国的なマッチョイズムそのもののように見える。しかし、実際のところ『GoW』シリーズが俺たちに提示しているのは、鍛え上げられた肉体が拷問によって徹底的に破壊されてしまうこと、妻子を失った兵士 (ドム) が特攻に希望を見ること、敵とすれ違う刹那にナッシャーショットガンによって「タフ」な男たちがミンチにされることであり、要するに、可傷性だ (その意味で『ハート・ロッカー』において海兵隊員が『GoW1』をプレイしているのは示唆的だといえる。監督のビグロー的には兵士の精神を破壊する"暴力的なゲーム"として引用したつもりだろうが)。

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あるいは、『GoW3』における処刑モーションを見てもいい。もはやそこにあるのは暴力への志向というより、度を過ぎた暴力が示す可傷性、シンプルな破壊可能性ではないのか。常識的なプレイヤーからすれば、数々の処刑モーションから得るカタルシスはほとんどない。無意味に暴力的なわけだ。もちろん、無意味な暴力というのはそれはそれで面白い。

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いずれにせよ、タイがそうであったように、「ブルマックのようにタフ」だったとしても、破壊は避けようがない。どうやっても俺たちはどこかで、いつか、何かによって破壊される。あるいは、タフだからこそ可傷性が浮き彫りになる。タフであるにもかかわらず、という形で。破壊可能性はつねに内在的だ。タフであることは、自らの破壊可能性を露出させることに関わっている。

 だから、"タフであること"について語るとき、俺たちが本当に目を向けなければならないのは他者を傷つける暗い可能性と、その暗さを「明るい光」で温めることではない。むしろ、自らが他なる暴力の客体である可能性こそを考えるべきだと俺は思う。田村カフカの"タフさ"には、どこまでも自らを律し、他者を傷つけないと誓う"主体"の傲慢さが見える  (ついでにいえば、田村カフカは15歳のくせにジム通いで、森のなかでさえ「身体機能を維持するためにつくられたワークアウト・メニュー」を律儀にこなす)。((さらにいえば、終盤、夢のなかで強姦したさくらさんに電話をかけ「僕もさくらさんの夢を見たよ」といい、「すごくエッチな夢じゃないの?」という問いに「かもしれない」と答える厚かましさだ。こいつはもうどうしようもない。忌憚のない意見ってやつっス))

 そうじゃなくて、俺たちは暴力を行使する存在である前に、まず暴力が到来する存在であることについて考えなくてはいけないのではないか。

 

そういうわけで、第22セリーにおいて、二つの死の区別がなされていることを思い出しておく。ひとつは「決して現前せず、過去と未来に分割され、過去と未来から切り離せない出来事としての」、つまり「非人称的」な死であり、もうひとつは、「最も辛い現在に到来して実現される人称的な死」だ。そのうえで、次のような疑問が提出される。

非物体的な裂け目を実現させず、また、身体の深層で受肉させないように用心しながら、その存立を維持するなどということが可能だろうか。

しかし「これら一連の問いすべてが、然り常に二つの相・二つの過程は本性を異にする、と思考する者すべての滑稽さを告発している」(らしい)。重要なのは次だ。

そうではあるが、ブスケが傷の永遠真理について話すとき、自分の身体が抱える忌まわしい個人的な傷の名において話しているのである。

俺たちは、滑稽さを告発されようとも、裂け目=破壊を意志しつつ、しかし同時にその破壊を完全に到来させはしないということをやるしかない。そしてそれは、「われわれに到来することに値する者になること」というモラルに貫かれている (たぶん)。

 正直よくわからないが、このモラルは「役者」という形象において理解される。

役者は出来事を実現するのだが、出来事が事物の深層で実現されるのとはまったく別の方式によってである。……役者の実現は、宇宙的で物理的な実現に境界を定めて、そこから抽象的な線を引き出し、出来事の輪郭と光輝だけを保存する。自己自身の出来事のコメディアンになること、反-実現。

二つの死、裂け目、破壊、崩壊がある。決して現前しない非人称的な出来事としてのそれと、到来し実現するそれだ。どちらも避ける、というわけにはいかない。そのような(田村カフカのような?)健康には意味がない。「われわれが勧誘されるのは、健康よりは死であるからである」。

 しかしどちらも取るというわけにもいかない。それはタイのように自分のドタマを吹き飛ばすことであり、ナッシャーでミンチになることだ。破壊可能性を認めないわけにはいかないが、同時に、露出された破壊可能性をそのまま受け入れるわけにもいかない。

出来事が肉体に記されるのでなければ、出来事の永遠真理を捉えることはできないが、その都度、われわれは、この苦しい実現を、それを制限し演じ変貌させる反-実現で裏打ちすべきである。自分で伴奏しなければならない。

ここで俺たちはマーカスの至言を思い出す必要がある。

戦場での鉄則は『カバー命』だ

Golden Rule of the Gears is:Take cover or die.

逃げるのではなく、カバーポジションを取ること。出来事から逃れるのではなく、出来事にカバーポジション=裏を取ること。それは、暗さの代わりに明るさを選ぶような、オルタナティブを選択することとはまったく違う。

「わかった じゃあプランBで行こう...プランBは何だ?」

「あ?ねぇよそんなもん 」

"Fine. We’ll go to plan B… you got a plan B?"

"What? Hell no!

ドムが認めるように、オルタナティブ=プランBは存在しない。

その代わり、俺たちは、到来するはずの、あるいは到来するはずだった出来事としてのプランAを自ら裏打ちしなければならない。

俺たちはデルタ小隊にならなければならない。

「それがほんとうにタフになるということ」、つまり「ブルマックのようにタフ」になるということだからだ。