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三日ほどはじめて韓国に行ってきた。

俺は帰化人なのでシンプルに因縁浅からぬ国ではある。

↑ 透き通るような心を持つ者にはピラニアがみえるという清渓川

 

とはいえ柳美里に倣い民族的アイデンティティを「無」としている俺なので、正直なところ渡韓にあたり特に思ったことはない。

しかし、このようなアイデンティティの揺らぎそのものがこの国の歴史に刻まれているような気がする。

 

映画『南山の部長たち』は1979年の朴正煕暗殺事件に取材した傑作だったが、序盤の終わりごろに朴正煕と彼をのちに暗殺する側近が二人きりで飲み交わす場面で、次のような日本語でのエモいダイアローグがある。

 

朴正煕:あのころはよかったな

側近: あのころは、よかったです

 

それまで韓国語で話していたところ、突然、朴正煕は日本語で「あのころはよかったな」と切り出し、側近もやや虚を突かれたあと日本語で「あのころは、よかったです」と応じる。この場面は俺のたったひとつのモノマネレパートリーだが、それはともかく、やはり日本語で行われていることが面白い。

かつて日本統治下で若い軍人として訓練を受けた朴正煕とその側近にとって、「日本語」は忘れ去られるべき過去でありながら、お互いを強く結びつけるよすがでもあり、また、朝鮮戦争を経て、軍人と政治家というアイデンティティの基礎でもある。

しかし、「日本語」が喚起するノスタルジーのなかで、朴正煕が「あのころはよかった」と懐古するとき、二人の関係性がお互いの疑心暗鬼によってもはや修復不可能なほど破綻してしまっていることが明らかになる。

やがて側近は朴正煕暗殺へと傾いていくのだが、今日にいたるまで側近の最終的な動機ははっきりしていない(らしい)。『南山の部長たち』は政治ドラマでありながら、暗殺に至るまでの過程をブロマンス的な物語として提示している。

 

この日本語での短いやりとりで明らかにされているのは、破綻していることをわざわざ確認をしなければならないほどの愛なのだろうと思う。

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十日ほど前、梅干しからソ連軍のスリーピングシャツをもらった。

肩が入らなかったらしい。

ソ連軍スリーピングシャツには秋冬用と春夏用の二種類があるらしい。これは薄手のV字ヘンリーネックなので夏用だと思う。

誰かがデッドストックで購入→梅干し→俺という流れ。

ボタンや生地をみるとそれなりに着られている。

この辺の劣化はいわゆる「味」として理解する。

 

八分袖くらいで着心地はいい。

しかし生地が薄いせいで透けてしまう。

そこで、黒色に染めることにした。

ヤシャブシ80gと鉄媒染液。

どうせやるならケミカルな染料より自然派の草木染めでいきたいところだ。

ところで後述するが染料であるヤシャブシをケチったのはよくなかった。

 

ヤシャブシを20分ほど煮て染液をつくる。4回ほどやった。

 

染液に投入する。どう考えても鍋が小さい。

鉄媒染ではアルミ鍋ではなくステンレスを使うべきらしいが、染色家のブログによるとほぼ誤差らしいのでアルミ鍋で強行した。

 

ポリ袋に鉄媒染液を入れ、染色したシャツを投下。風呂場にかなり鉄っぽいにおいが充満した。

染色→媒染という過程を二度おこなった。

 

結果がこれだ。

 

黒………………?

 

グレーなのか茶色なのかよくわからない色になった。うんうんこれも味だね。

 

実物はさらに枯れた感じが強い。東欧の農民感がある。

ちょうど東欧の農民 (概念) になりたかったのでよかった。

 

染めムラも結構ある。味だね。

 

正直なところ、「染めた」というより「汚した」に近い質感と「お色味」になった。

しかも洗っても落ちない。浄化しえぬ不浄。原罪。

やはり迷信深い東欧の農民っぽさがある。

 

薄い染色になってしまったのは染料であるヤシャブシの量をケチったためかもしれない。シャツ一枚だいたい150-200gかと思うが、80gはさすがに少なかったか。

またかなり着古した古着であったため、付着したたんぱく質などに反応して染めムラが出た可能性もある。うんうんこれも味だね。

ソ連軍スリーピングシャツというものじたいが一過性のトレンドアイテムなのではじめから室内着にしようと思っていた。真っ白だと透けて一枚で着れないし。

これなら汚れても気にならない。なんなら洗っても汚れている。

 

つねにすでに汚れているシャツ。

純粋現前は古着屋には売っていないのだ。

 

正直、部屋着としてはかなり気に入っている。

 

味。

 

 

 

 

 

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前回 ↓

solitudeandsilence.hatenablog.com

 

『たらちねパラドクス』 (塀) の結末で、留学へ旅立とうとする女子高校生あかしは、わけあってともに高校生の同級生として時間を過ごした母すだちに、一緒に高校を卒業できないことを謝罪する。

 

 

わけあって生んだばかりの娘あかしを日本において、しかも高校を卒業せず渡米し、帰国後に彼女との時間を「親子」ではなく「同級生」として生き直した母すだちのいう「アンタはいつも大正解だ」というセリフは胸を打つ。

高校に入学し、同級生となるように勧めたのは娘あかし本人だからだ。

あかしが「いつも大正解」だと母すだちが語るとき、彼女は単にあかしの留学という選択を認めるだけでなく、親子として共有されてこなかった時間をもう一度、同級生という別な形でやり直す、という娘の選択を遡及的に肯定している。そして「いつも」である限り、二人の関係性はこれからも「大正解」であり続ける。

 

俺はこういう「これから」を語る仕方で「これまで」を救済する物語が好きだ。

最近だと『ぼっち・ざ・ろっく!』もそういう物語だった。虹夏が「これからもぼっちちゃんのぼっち・ざ・ろっくを聴かせてほしい」というとき、後藤ひとりのひとりぼっちのロックという過去が「ぼっち・ざ・ろっく」として救済され、「これから」へとそのままつながっていく。

『ぼざろ』がしばしば「星」の形象を用い、アニメでは「星座になれたら」という楽曲が歌われることを思えば、やはり同じように「星座」と「救済」について思考したヴァルター・ベンヤミンを想起する。俺には『ぼざろ』とベンヤミンが同じものを見つめていると思えてならない

 

それはともかく、「過去を別な仕方でやり直す」という救済がある。

どれほどありきたりな結論に見えても、俺にはいまのところこれしか思いつかない。

 

以前、俺は「本当に秘密は明かされているのか?」と疑問に思った。

「これから」を待ち受ける物化の思想では「過去」は扱えず、密やかな近さとしての体験は「いま」にしかありえない。

 

たらちねのパラドクス。母と娘が、「母と娘」ではない仕方で「母と娘」を生き直すというパラドクス。

かつてベンヤミンは「言語一般および人間の言語について」において、パラドクスを前提ではなく結論として保持し続ける、という思考を提示した。

 

答えが近い気がする。

 

差異を含まない反復などありえない、というもはやありきたりになった考え方を導きにすれば、差異をかませることで反復が可能になる、という話になる。

だから、たぶん俺は次のように考えるべきなんだと思う。

 

過去の「根源的なオラリテ」に親しむことはできない。

過去と同じ風が吹くことはない。

当たり前のことだ。

しかし、これから、その現在があたかも"過去であるかのように"別な仕方で鳴ることがないとはいえない。

「秘密はすでに明かされているからである」。

 

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いろいろ考えて、Aラインのシルエットがいちばん「耐えられる」な、と感じている。

 

身長175cm 体重58kg 肩幅狭めという体型で生きてきた。ふつうにすべてジャストサイズで着ると直線的なイメージが強すぎてしまう。それもドーリア式の柱のように力強いものではなく、「棒」の形象そのものになる。

 

だから、俺が自分自身を許容し、耐えられているときは、いつもだいたいジャストサイズかやや大きめのシャツに渡り幅の大きいパンツを着ている。ジャケットやコートいらない季節なら、パンツはテーパードでややシルエットに動きがあるとよい。

 

緊張感と脱力感のバランス。

動かなさすぎてはいけない

 

最近は室内でも自分を許容したいので、無印良品のワイドテーパードパンツを部屋着として重宝している。近くのスーパーに行くときはこれに白いスタンドカラーシャツを着て、上下無印良品の化身を目指す。

 

ところで、mittanの竹パンツはサイズ2か3のどちらがベストなんだ

教えてくれ、五飛

 

 

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前回 ↓

solitudeandsilence.hatenablog.com

 

荘子の哲学』(中島隆博)によれば、「荘子」のテクストには「根源的なオラリテ」が響き渡っている。「道」が明らかにされたところでは「吹く風の音」も「鳥の鳴き声」も「人の声」もともに連絡しあい、お互いを可能にし、鳴り響いている。だからこそ、そこに他なるものへの変成、「物化」の契機がある。「鶏となって時を告げる」ような可能性が。

 このように読解された「荘子」において「物化」という概念が、荘子の枢軸となる思想として (中島のよく使う言葉を用いれば)「競り上げ」られたとき、中島自身が指摘するように、「荘子」の限界が見えてくる。「この」世界と「この」体験そのものの変容をいう「物化」と、そのように変容した「この」性と他なる「この」性との同一性をいう「斉同」とはともに「荘子」の限界そのものでもある。

 

これはおそらく、『荘子』の毒であり、「物化」の思想の限界であることだろう。それは、過去の時である「あの時」を扱うことのできない、「この時」の思想だからだ。

 

当たり前だが、過去の音を聴くことはできない。

「鳥のようにうたう」ときは来るかもしれない。だが、過ぎ去った「あの音」をもう一度この耳で聴くことは、おそらくそれじたい正確な反復としては、(絶対に)ありえない。

ここで俺は、やはり東日本大震災ルポルタージュ津波の霊たち』における次の問答を思い出す。

 

 私は紫桃さよみさんに訊いた。遠藤教諭の口から具体的に何を聞きたいのか? まだ知らないことなどあるのか? 推測できないことが残っているのか?

「そのとき起きたことすべてです」

「たとえば?」

「どんな空だったのか?」と彼女は言った。「どんな風が吹いていたのか? どんな雰囲気だったのか? 子どもたちのムードは? 先生方は子どもたちの命を真剣に救おうとしたのか? 子どもたちは寒がっていたのか? 家に帰りたがっていたのか? わたしの娘はどんな様子だったのか? あの子に最後に話しかけた人は? 逃げたとき、誰のそばにいたのか? 誰かと手をつないでいたのか? そんなことをすべて知ったとしても、千聖が戻ってくるわけではありません。でも、ここで起きたすべてのこと──それがわたしの知りたいことなんです」

 

俺はここで「言葉」に求められているものの端的な巨大さに愕然とする。

 

中島によれば、荘子のテクストは他なるものへの物化の経験として、「わたし」がある特定の、ある瞬間の身体的な布置において「他者と深く関係し、一つのこの世界に没入し享受する」ような体験を取り上げている。この体験には池を泳ぐ「魚の楽しみ」の理解だけではなく、供養としての「死の楽しみ」さえも重なる。中島はこの体験を「秘密」と呼ぶ。

わからないでもない。ここで鍵になるのは、身体的布置という契機が示唆するように、その場に立ち会うという「近さ」だ。その近さが含意する「密やかさ」だ。その密やかさが他者である「魚」の「楽しみ」の理解を可能にする。

しかし、津波で子を失った母は、その近さの可能性さえも奪われている。

 

どんな風が吹いていたのか?

 

母の「この」世界は、娘の死を取り巻いた「この」世界の「根源的なオラリテ」から途方もないほどに遠ざかっている。

 

本当に秘密はすでに明かされているのか?

 

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先日購入したTrippenのHarferlは公式サイトによると「ベジタブルタンニンなめしのカーフレザー」を使用している。そこで、問いは以下のようになる。

 

「ベジタブルタンニンなめしのカーフレザーを使用している」とはどのようなことか。60字以内で説明しなさい。

 

A. 「天然素材でなめしているので経年劣化し、また柔らかく傷つきやすい子牛の皮を使っているので丁寧なケアが必要ということ。」

 

要するに、いわゆるヌメ革。

購入直後、何も知らなかったのでポリッシュドレザー使用のSANDERSの短靴と同じようにモゥブレイのクリームエッセンシャルを塗り込んでしまった。ボトルの裏を見ると「ヌメ革には使用できません」とあり焦る。水気が多いせいだろうか。ヌメ革は水に弱くすぐにシミになるらしい。

 

しかし、そもそも「革」とは?

 

参考になったのは以下のウェブサイトと記事。

デテログ | 革のお手入れとレザークラフトのブログ

 

今まで(ほとんど)誰も書かなかった革(靴)の細かなこと|多久治|note

 

詳細は飛ばすが、とりあえず乾燥させないことが大切だとわかった。

 

革のケア用品は大きく「ロウ(ワックス)」「クリーム」「オイル」の三つに分けられる。乾燥を防ぐには基本的に、クリーム(乳化性)しか選択肢はない。極論めいてしまうが、ロウとオイルは艶出しや風合いのために使うのだと思う。

 

というわけで、「ベジタブルタンニンなめしのカーフレザー」のケアとしては、

丁寧にブラッシングしつつ、定期的に乳化性クリームで保護し、防水スプレーで水気に備える

という思いのほかふつうな感じになる。

 

なるはずだ。

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中島隆博『思想としての言語』は次のようなエモい文章で終わっている。

 

 おそらく、井筒が救済しようとしている以上に、この世界の衆生であるわたしたちは言語としての秘密に翻弄されて、救済から離れてしまうのだろう。それはほとんど不可避のようにも見える。しかし、この限界において、空海は「大悲の曼荼羅を描く」余地を、救いがたいものたちに残したのである。

 わたしたち(しかし、いったい本当はナニモノなのだろうか)は、隠されることのない、いわば明るい秘密の中で、言語について考え続けるほかないのだろう。言語は鬼を可能にすると同時にそれを抑圧するのだが、それは実はわたしたち自身のありさまにほかならない。

 天が粟を降らせることもないだろう。その代わりに、「天籟(天の音)」や「地籟(大地の音)が、「命の雑音」もしくは「バックグラウンド・ノイズ」として、わたしたちそのものである「人籟(人の音)」を可能にしてくれているのだ。

 武満徹は、「私は音楽家として、現存の四倍の努力をしなければ、鳥のようにはうたえないことになる。また、仮にそうとしても、あんなに美しく充実した歌がうたえるものだろうか……」と述べた。いつか「鳥のように」うたう時が来ることがないとは言えない。秘密はすでに明かされているからである

 

中島によれば、空海はこの世界のすべてが言語を備えていて、「法身」つまり秘密であるところの真理を体現しているとする。人はこの世の原理であるところの言葉そのものに絡めとられてしまっているが、だからこそ真理への救済がある。それを踏まえ、この文章の直前で、中島は空海の語る以下のようなエピソードを提示している。

 

とある画家が夜叉の絵を描き、自ら恐れおののいてしまった。人一般も同じである。「自分も存在者の本源(=言葉)を駆使して、衆生の住む三界を描いた。その世界に自分で埋没し、心が燃え上がって、多くの苦しみをことごとく受ける」。しかし「如来のように知恵ある」画家は、このようなことをよくわかっているので「自在に大悲の曼荼羅」を描くことができる。

したがって、と空海は結論する。「甚深秘蔵(深遠なる秘密の教え)は、衆生が秘密にしているということであって、仏が秘密にしているわけではない」

 

世界そのものとしての秘密はすでに明かされている。そして俺たちが言葉であり、同時にこの世界のひとつとして秘密を体現するとき、そこには他の様相において、他のひとつである「かのように」在るという可能性がある。「鳥のように」うたうとはそのことだろう。

 

俺は思うのだが、もし俺たちすべてを通じて秘密としての真理が明らかにされ救済への道が開けているのなら、おそらく、俺たちはすでにほとんど救済されているといっていい。しかし、それでもなお、俺たちはこれから救済が待ち受けている「かのように」生きていく。

「天籟」と「地籟」の響き渡るこの世界という「明るい秘密」の中で。