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solitudeandsilence.hatenablog.com
『たらちねパラドクス』 (塀) の結末で、留学へ旅立とうとする女子高校生あかしは、わけあってともに高校生の同級生として時間を過ごした母すだちに、一緒に高校を卒業できないことを謝罪する。
わけあって生んだばかりの娘あかしを日本において、しかも高校を卒業せず渡米し、帰国後に彼女との時間を「親子」ではなく「同級生」として生き直した母すだちのいう「アンタはいつも大正解だ」というセリフは胸を打つ。
高校に入学し、同級生となるように勧めたのは娘あかし本人だからだ。
あかしが「いつも大正解」だと母すだちが語るとき、彼女は単にあかしの留学という選択を認めるだけでなく、親子として共有されてこなかった時間をもう一度、同級生という別な形でやり直す、という娘の選択を遡及的に肯定している。そして「いつも」である限り、二人の関係性はこれからも「大正解」であり続ける。
俺はこういう「これから」を語る仕方で「これまで」を救済する物語が好きだ。
最近だと『ぼっち・ざ・ろっく!』もそういう物語だった。虹夏が「これからもぼっちちゃんのぼっち・ざ・ろっくを聴かせてほしい」というとき、後藤ひとりのひとりぼっちのロックという過去が「ぼっち・ざ・ろっく」として救済され、「これから」へとそのままつながっていく。
『ぼざろ』がしばしば「星」の形象を用い、アニメでは「星座になれたら」という楽曲が歌われることを思えば、やはり同じように「星座」と「救済」について思考したヴァルター・ベンヤミンを想起する。俺には『ぼざろ』とベンヤミンが同じものを見つめていると思えてならない。
それはともかく、「過去を別な仕方でやり直す」という救済がある。
どれほどありきたりな結論に見えても、俺にはいまのところこれしか思いつかない。
以前、俺は「本当に秘密は明かされているのか?」と疑問に思った。
「これから」を待ち受ける物化の思想では「過去」は扱えず、密やかな近さとしての体験は「いま」にしかありえない。
たらちねのパラドクス。母と娘が、「母と娘」ではない仕方で「母と娘」を生き直すというパラドクス。
かつてベンヤミンは「言語一般および人間の言語について」において、パラドクスを前提ではなく結論として保持し続ける、という思考を提示した。
答えが近い気がする。
差異を含まない反復などありえない、というもはやありきたりになった考え方を導きにすれば、差異をかませることで反復が可能になる、という話になる。
だから、たぶん俺は次のように考えるべきなんだと思う。
過去の「根源的なオラリテ」に親しむことはできない。
過去と同じ風が吹くことはない。
当たり前のことだ。
しかし、これから、その現在があたかも"過去であるかのように"別な仕方で鳴ることがないとはいえない。
「秘密はすでに明かされているからである」。