no title

前回 ↓

solitudeandsilence.hatenablog.com

 

荘子の哲学』(中島隆博)によれば、「荘子」のテクストには「根源的なオラリテ」が響き渡っている。「道」が明らかにされたところでは「吹く風の音」も「鳥の鳴き声」も「人の声」もともに連絡しあい、お互いを可能にし、鳴り響いている。だからこそ、そこに他なるものへの変成、「物化」の契機がある。「鶏となって時を告げる」ような可能性が。

 このように読解された「荘子」において「物化」という概念が、荘子の枢軸となる思想として (中島のよく使う言葉を用いれば)「競り上げ」られたとき、中島自身が指摘するように、「荘子」の限界が見えてくる。「この」世界と「この」体験そのものの変容をいう「物化」と、そのように変容した「この」性と他なる「この」性との同一性をいう「斉同」とはともに「荘子」の限界そのものでもある。

 

これはおそらく、『荘子』の毒であり、「物化」の思想の限界であることだろう。それは、過去の時である「あの時」を扱うことのできない、「この時」の思想だからだ。

 

当たり前だが、過去の音を聴くことはできない。

「鳥のようにうたう」ときは来るかもしれない。だが、過ぎ去った「あの音」をもう一度この耳で聴くことは、おそらくそれじたい正確な反復としては、(絶対に)ありえない。

ここで俺は、やはり東日本大震災ルポルタージュ津波の霊たち』における次の問答を思い出す。

 

 私は紫桃さよみさんに訊いた。遠藤教諭の口から具体的に何を聞きたいのか? まだ知らないことなどあるのか? 推測できないことが残っているのか?

「そのとき起きたことすべてです」

「たとえば?」

「どんな空だったのか?」と彼女は言った。「どんな風が吹いていたのか? どんな雰囲気だったのか? 子どもたちのムードは? 先生方は子どもたちの命を真剣に救おうとしたのか? 子どもたちは寒がっていたのか? 家に帰りたがっていたのか? わたしの娘はどんな様子だったのか? あの子に最後に話しかけた人は? 逃げたとき、誰のそばにいたのか? 誰かと手をつないでいたのか? そんなことをすべて知ったとしても、千聖が戻ってくるわけではありません。でも、ここで起きたすべてのこと──それがわたしの知りたいことなんです」

 

俺はここで「言葉」に求められているものの端的な巨大さに愕然とする。

 

中島によれば、荘子のテクストは他なるものへの物化の経験として、「わたし」がある特定の、ある瞬間の身体的な布置において「他者と深く関係し、一つのこの世界に没入し享受する」ような体験を取り上げている。この体験には池を泳ぐ「魚の楽しみ」の理解だけではなく、供養としての「死の楽しみ」さえも重なる。中島はこの体験を「秘密」と呼ぶ。

わからないでもない。ここで鍵になるのは、身体的布置という契機が示唆するように、その場に立ち会うという「近さ」だ。その近さが含意する「密やかさ」だ。その密やかさが他者である「魚」の「楽しみ」の理解を可能にする。

しかし、津波で子を失った母は、その近さの可能性さえも奪われている。

 

どんな風が吹いていたのか?

 

母の「この」世界は、娘の死を取り巻いた「この」世界の「根源的なオラリテ」から途方もないほどに遠ざかっている。

 

本当に秘密はすでに明かされているのか?