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中島隆博『思想としての言語』は次のようなエモい文章で終わっている。

 

 おそらく、井筒が救済しようとしている以上に、この世界の衆生であるわたしたちは言語としての秘密に翻弄されて、救済から離れてしまうのだろう。それはほとんど不可避のようにも見える。しかし、この限界において、空海は「大悲の曼荼羅を描く」余地を、救いがたいものたちに残したのである。

 わたしたち(しかし、いったい本当はナニモノなのだろうか)は、隠されることのない、いわば明るい秘密の中で、言語について考え続けるほかないのだろう。言語は鬼を可能にすると同時にそれを抑圧するのだが、それは実はわたしたち自身のありさまにほかならない。

 天が粟を降らせることもないだろう。その代わりに、「天籟(天の音)」や「地籟(大地の音)が、「命の雑音」もしくは「バックグラウンド・ノイズ」として、わたしたちそのものである「人籟(人の音)」を可能にしてくれているのだ。

 武満徹は、「私は音楽家として、現存の四倍の努力をしなければ、鳥のようにはうたえないことになる。また、仮にそうとしても、あんなに美しく充実した歌がうたえるものだろうか……」と述べた。いつか「鳥のように」うたう時が来ることがないとは言えない。秘密はすでに明かされているからである

 

中島によれば、空海はこの世界のすべてが言語を備えていて、「法身」つまり秘密であるところの真理を体現しているとする。人はこの世の原理であるところの言葉そのものに絡めとられてしまっているが、だからこそ真理への救済がある。それを踏まえ、この文章の直前で、中島は空海の語る以下のようなエピソードを提示している。

 

とある画家が夜叉の絵を描き、自ら恐れおののいてしまった。人一般も同じである。「自分も存在者の本源(=言葉)を駆使して、衆生の住む三界を描いた。その世界に自分で埋没し、心が燃え上がって、多くの苦しみをことごとく受ける」。しかし「如来のように知恵ある」画家は、このようなことをよくわかっているので「自在に大悲の曼荼羅」を描くことができる。

したがって、と空海は結論する。「甚深秘蔵(深遠なる秘密の教え)は、衆生が秘密にしているということであって、仏が秘密にしているわけではない」

 

世界そのものとしての秘密はすでに明かされている。そして俺たちが言葉であり、同時にこの世界のひとつとして秘密を体現するとき、そこには他の様相において、他のひとつである「かのように」在るという可能性がある。「鳥のように」うたうとはそのことだろう。

 

俺は思うのだが、もし俺たちすべてを通じて秘密としての真理が明らかにされ救済への道が開けているのなら、おそらく、俺たちはすでにほとんど救済されているといっていい。しかし、それでもなお、俺たちはこれから救済が待ち受けている「かのように」生きていく。

「天籟」と「地籟」の響き渡るこの世界という「明るい秘密」の中で。