no title

ジョン・ロックは『人間悟性論』のなかで次のような例を持ち出しており、俺は勝手に感動して、よくわからない文章を書いている。

Simple ideas wouldn’t be convicted of falsity if through the different structure of our sense-organs it happened that one object produced in different men’s minds different ideas at the same time—for example, if the idea that a violet produced in one man’s mind by his eyes were what a marigold produced in another man’s, and vice versa. This could never be known, because one man’s mind couldn’t pass into another man’s body to perceive what appearances were produced by his organs; so neither the ideas nor the names would be at all confounded, and there would be no falsehood in either. . . . I am nevertheless inclined to think that the sensible ideas produced by any object in different men’s minds are usually pretty exactly alike . . . 

「もしある人物の精神のなかにその人の目を通じてスミレの生み出す観念が、別な人物の精神のなかにマリーゴールドの生み出す観念と同一であったり、はたまたその逆であったりしたら」……

たとえそうだとしてもそのような観念は「偽」ではない、というのがロックの主張なんだろう (たぶん)。そもそも彼がいうように他人のドタマのなかをのぞき込んでそこにあるのがどんな観念なのかは確認したりできない。

 

ここでロックが論じているのは"Simple ideas are merely perceptions that God has fitted us to receive, and has enabled external objects to produce in us"と定義されるような「単純な観念 (simple ideas)」であるため、別にそんなに深い意味があるような例ではない。

問題となっているのは「ある同じときに、同じ対象が二人の人物に異なる観念を与える場合」、つまり「目の前に咲くスミレがマリーゴールドがあなたに与えるのと同じ観念をわたしに与える場合」だ (わたしにはスミレがマリーゴールドにみえる)。

 

非現実仮想"the idea . . . were"で書かれているのでさすがにロックも「こんなことはありえねえだろうが……」と思っているのだが、結局"this could be never known"というように、実際のところありうるかもしれない。

あるいは、ふつうにいえば、ここで起きている現象はただの「思い違い」にすぎず、特別な意味を見出すようなものでもない。

 

しかし、なんとなくだが、そんなことの起きる世界は美しいのではないか。

確かに「いま目の前で咲いている花」に関する観念について二人のあいだでは一致を見ない。しかしそれは、「いまここ」の時間的空間的制約を超えて、二人が同じことを考えていた/いる/だろうかもしれないことを含意している。

少なくとも二人は「マリーゴールドの観念」においては一致しているからだ。

 

わたしがスミレをみて抱いたマリーゴールドの観念は、あなたがいつかマリーゴールドをみて抱いた/抱くだろうマリーゴールドの観念と同一である。

 

ロックがいうようにお互いがその事実を知ることはない。

同じとき、同じ場所で、ある花をみながら、わたしはあなたがあの日あの時みた、あるいは、いつかみるのと同じ、しかし別な花を思い浮かべる。

人知れず、密やかに、自分自身ですら気づかずに。