no title

もはや芸術論ですらない奇妙なエッセイ「野原」(『見るということ』所収) のなかで、美術批評家ジョン・バージャーは次のように述べている。

最初の出来事は過度に劇的であるべきではない。

この「出来事」なる経験が到来する光景としてバージャーが用いるのは一貫してノスタルジックな「野原」のイメージだ。

その瞬間、野原の空間にぴったりと合った特別な時間が満ちているかのようだ。時間と空間がそこで結び合う。

 私がここで様々な方法で記そうと試みているのは非常に些細な、直接的に求めることができるような経験である。しかしそれは多分、言語化される以前の認識や感情のレベルにあり、それについて書くのは非常に難しい。

したがってバージャーはこの「野原」において我々が経験しうる「最初の出来事」の具体的な例を挙げる。「放牧されている二頭の馬」「茸を捜す老女」「空を舞う鷹」「会話する二人の男」「呼び声」「歩いている子供」など。

 こういった「劇的でない」出来事が「最初の出来事」となり、「犬を見ていて蝶に気付く」ような無関係性に基づく出来事の連関へと我々は導かれていく。それは「他の出来事が起こるための前提条件」でもあるからだ。つまり、野原という茫漠たる空間が内包するあるふとした瞬間から、一連の充足的な経験へと我々は導かれていく。バージャーはこのような「出来事」とその連関を「物語」という時間性に対立させる。

その時あなたはすでに経験の中にいる。しかしこのように言うときには、物語られた時間や経験の本質は既にその時間の外にあることが暗示されている。こうした経験はその人の人生の物語には入り込まない。それは様々な意識の段階で繰り返し自分に問うような物語ではない。逆にこの物語は遮られる。

この曖昧な記述でバージャーが語ろうとしているのは、おそらく、出来事が経験の「時間」つまり「物語」の外部にあるということなんだろう。むろんこういう充足的な幸福の体験を非時間的なもの、あるいは現在性のもとで理解するのはそれじたいほとんどクリシェ的な発想だといってよい。The Antinomies of Realismにおいてジェイムソンは非時間的現在 (ミメーシス) と直線的時間 (ディエゲーシス) の弁証法的運動をリアリズムの根本原理としているが、要するに似たような話だ。より端的にいえば、この「物語」とは俺たちの意志に関わらず勝手に前に進む「人生」という時間性にほかならない。充足の経験はその外部にある。

 しかしバージャーのいっていることが面白いのは、この「出来事」に「劇的でない」ことを求めるからだ。

一人の男が泣き叫び、地に伏したところを見たとしたら、その出来事の言外の意味は野原の自足性をすぐに破ってしまう。あなたは外から駆け寄っていくだろう。あなたはそこから彼を連れ出そうとするだろう。仮に実際の行動が伴わなかったとしても、こうした過度に劇的な出来事は同様の不利益をもたらす。

ここからわかるように、「出来事」について語る際にバージャーが最終的に用いているのは、時間性ではなく空間性の修辞である。結局のところバージャーは美術批評家であり、彼にとって最も特権的な感覚は視覚だ。「あなたは外から駆け寄っていくだろう」。つまり、「あなた」は額縁の外からそのなかに収められた風景へと介入してしまうのだろう。その額縁のなかをバージャーは「物語」と呼ぶ。したがって、劇的でない、というのは文字通りに受け取る必要がある。舞台に上がってはいけない。

(そしておそらく、バージャーの意図に反して、このエッセイが描き出す経験のなかでもっとも美しい瞬間は、「野原の自足性」を打ち破ってまで「彼をそこから連れ出そうとする」身振りだろう)

 

バージャーがいうように、充足の経験を得るためには、あなたは劇の中に入ってはいけない。

しかしそれは俺たちが選べることなのか。

もちろんこのように読むのはバージャーの記述を、特に「べきでない」という当為性の問題を意志的な選択に関わるものとして曲解している。

 

とはいえ同時に俺が思うのは、劇的すぎない出来事の到来を待つことよりも、そのような出来事がぶっ飛んでしまう物語のどうしようもなく劇的な力のほうである。

ペパーミント・キャンディー』において、1979年のあるピクニックでキム・ヨンホは「最初の出来事」に出会うが、翌年の光州事件が彼を否応なく「物語」の舞台へと上げてしまう。

あるいは『月のテネメント』において、非時間的な月島の生活は開発の波に飲み込まれ、かわせみは突如として過去-現在-未来を貫く時の流れのなかに自らを見出す。

 

劇的すぎてはいけないと言われたところで、そもそも俺たちには選べない。

不意に世界は美しい。それは俺たちも知っている。しかしそれは「歴史」や「物語」のなかで消化され、いつの間にか見当たらなくなっている。だから、その物語の外部について、つまり再び来るであろう出来事について、ではいつ来るのか?と問わざるを得ない。

 

真木悠介は『気流の鳴る音』において、東南アジアで終戦を迎えたB・C級戦犯の手記に「たがいに符合する一つの回心のパターン」を見出している。死刑の判決を受けて収容所に戻る彼らは不意に「光る小川や木の花や茂みのうちに、かつて知ることのなかった鮮烈な美を発見する」。戦時中、彼らはその道を何度も通ってきた。しかし彼らの人生を捉えてきた「天皇制国家の価値体系」や「帝国軍人としての役割意識」などから解放されたとき、彼らの目に「裸形の自然がその姿を現す」。そして、真木はこの経験を「色即是空」の思想に結びつけ、次ような胸を打つ一節を残している。

 仏教のいちばんいい部分には、万象を空しいと観じた時に、逆にふわっと浮かび上がってくる万象の価値への感覚があるように思う。色即是空空即是色という転位の弁証法は、人間と世界との関係のいっさいの真理を包む。

すべてが色を失い空虚になるとき、それは空虚それじたいが新たな色彩を纏う契機となる。しかし、この「転位の弁証法」は必然的に「時間」を内包している。色即是空から空即是色への転位には、「あいだ」がある。俺たちは一度時間へと取り込まれなければならないし、そもそもどうしようもなくそうだ。

ではその転位はいつ来るというのか。

あるいは、キム・ヨンホのようについに転位を垣間見ることなく、時の流れそのものである列車に自らを晒し、バラバラに砕け散るほかないのだとしたら?