『繕い裁つ人』を読んだ。
仕立て屋「南洋裁店」の店主 南市江の生活と仕事を通じて、洋服と人、あるいは人と人とが織りなす多様でありつつありふれた人生模様を描いた作品だった。日常にやさしい目を向ける作品だったが、中心的な主題である「変化」を扱う手つきはやや緊張感がある。
特に市江のこだわる「人に寄り添う洋服」が「人が洋服に合わせるべき」という価値観によって対決されるとき、「変化」という主題は「何のために洋服を着るのか」と問うことに切り替わる。
これは二十代も半ばを過ぎてから自覚的に洋服を買い始めた人間として、それなりに切実な問題でもある。
ここにメルカリで中古購入した、サイベーシックスとかいうところのシャツがある。ただ白いボタンダウンのシャツだ。胸元にサイの刺繡がある。マジでただの白いシャツだ。
某シャツブログを読むと、いろいろ細かいところでそこらのシャツとは違うらしい。わかるか?と言われれば正直わからないし、わかる必要もない。
ただ俺のなで肩エヴァ体型に微妙に吸い付くような感じがあって、はじめて着たときはなんかキモと思った。それだけだ。
白いシャツなら無印良品で買える。実際スタンドカラーの白シャツを仕事着にしている。生地の感じが気にくわないとかボタンが安っぽいとか、裾のデザインが気にくわないとかいろいろあるが、無視できないほどじゃない。
でもたまに耐えられなくなる。
ここで「この服で/に俺は耐えられるか否か」という判断基準が見えてきたとき、市江の衝突する問いに俺なりの答えが出る。意外にも俺は「人が洋服に合わせるべき」と思うほうで、実際のところ俺が買う服がそうであるかは初心者であるためわからないにせよ、俺は洋服に合わせにいくようなイメージで買っている気がする。
俺は俺が俺であることに耐えられないからだ。
これは変身願望ではない。だから俺はたぶん他人からみても「俺」の延長線上にあるような服しか着ない。なんかtwitterとかインスタでみるめっちゃおしゃれな人とかにあこがれはない。
イメージとしては補強に近い。
俺は俺だけでは俺であることに耐えられない。